石坂産業・石坂典子社長<1>父の志を知り2代目社長に就く
関東

その他

産業廃棄物処理会社の「石坂産業」(埼玉県入間郡三芳町)は、業界屈指の廃棄物リサイクル率を誇る環境再生企業だ。

2002年、石坂典子(45)は創業者の父・好男の後継者として、30歳で社長に就任。常識破りの改革を次々に断行し、就任時の年商25億円を51億3000万円(17年8月期)に成長させた。しかし、その道のりは苦難の連続だったという。

発端は1999年に起きた「所沢ダイオキシン騒動」だった。埼玉の所沢産野菜から高濃度のダイオキシンが検出されたとテレビ報道され、野菜の売り上げが激減。産業廃棄物の焼却炉がダイオキシンの発生源だとされた。のちに野菜ではなく茶葉からの検出だったと誤報が判明するも、地元住民は激怒し、環境団体を巻き込み「産廃業者は出ていけ!」と大バッシングを繰り広げたのだ。

当時、所沢市、川越市、狭山市、三芳町の3市1町に雑木林がまたがる地域は「産廃銀座」と呼ばれ、産廃業者が密集していた。なかでも反対運動の標的となったのが、最大手の石坂産業だった。会社の周りには批判の横断幕が張られ、監視小屋まで建てられた。

そして、「2001年には事実上の撤退、廃業を求める行政訴訟が起こされたのです」。

実は騒動の2年前に、父・好男は15億円を投じた日本初のダイオキシン対策炉を導入していた。しかし、産廃業者を十把ひとからげに排斥する人々は、聞く耳を持たなかった。

それまで2代目社長になるなどとは夢にも思っていなかった石坂。子供の頃「ゴミ屋の娘」とからかわれ、父の仕事をあまり快く思っていなかった。米国遊学後、父の会社に入社したのも、ネイルサロンの開業資金を貯めるためだった。

「でも、会社が存続の危機に陥るのを目にし、そういえば、父はなぜこの事業を始めたのだろうと知りたくなりました。で、初めて聞いてみたのです」

父・好男は中学卒業後、鮮魚店の店員やタクシー運転手などを経て、一念発起し、ダンプカーを購入。とび職と解体業を手がけ始めた。

「毎日毎日ダンプにゴミを積んで、お台場の埋め立て地に捨てに行った。ゴミの中には、まだ使えそうなものがたくさんあった。こんなことがいつまでも続いていいわけない。いずれリサイクルの時代が来る」

そう思って、1967年に今の会社を起こしたと、父は創業の志を語ってくれた。

「大量生産・大量消費の高度経済成長期に、もっと先の未来を見据えていた父の先見性を、この時初めて知りました」

ゴミを埋めたり燃やしたりして環境に負荷をかけるのではなく、いずれは100%リサイクルしたい。そんな父の熱い思いを知った石坂は、「産廃処理には社会的意義がある。なのに、この仕事の価値が世の中に全く伝わっていない」と憤慨する。そして、「この仕事の大切さを世の中に発信する役回りをしたい。私に社長をやらせてくださいと口にしていました」。

この申し出を父は「女にこの仕事が務まるか」と一度は一蹴するも、数日間の熟考の末、「試しに何ができるか、やってみろ」と了承する。

“絶体絶命のピンチをチャンスに変える”石坂の逆転経営が始まった。

(ジャーナリスト・松田亜希子)

 

出典:日刊ゲンダイDIGITAL


戻る